草稿 #9

私には絶望が待っている。孤独が待ち受けている。弱さゆえにいつも脅えている。言葉さえも自由ではない。隠喩さえも浮かばない。そんな余裕も知恵もない。ないのだ、持ち合わせていない。絶望、退路は断たれ、前方も崖である。形に囚われてはだめなのだ。無形が優れているわけではない。自然とは形はあるが、無形なのである。私は雨を見るが、雨を知らないのだ。ましては太陽を知るわけがない。救われない。その嘆きも形ないものだから、誰も救うことはできない。逃走の果てに見出したのは果てしない死である。どこにも居場所がない。流れていくこともできず、拒絶、孤立電子対。肉体をえぐり取られ、私は解体される。言葉は私を救わない。なぜゆえに、彼は行き、やってくるのか?私は行くことはできない。向かうこともできない。何故ゆえに精神の不具なのか。誰も私の知るところではなくなったとき、私はどうするだろう。誰も振り向かない。私の世界に誰も興味を示さない。暗夜、私は漂うブヨ。誰か助けてください。雨の中を泳ぐ鳥。小瓶に入った毒薬。小さな呼吸に小さな鼓動。絶望とともに繋がれる命。バラバラに千切られた声明は意識を保つことはできるのか。人は一つの意識の中で右往左往する。乖離することなしに多数の自己を持つことはできない。合一性、不適格な能力。それらすべてが一人の現実を蝕んでいく。私は私であることができない。世界に孤独で産まれたとしても、それを不幸と呼ぶのか?苦しみは常に隣合わせだ。痛みは己が生きていることを思い返させる。しかし、それは生からの逃避も浮かび上がらせる。痛みは何故にここまで進化したのか?

草稿 #8

求心するエネルギーは黒い穴に通じている。糸が垂れてもその糸を信じられない者もいる。しかし、死が眼前にあれば、だれもが豹変するでだろう。アウシュヴィッツ。過剰なものが世界を救うのか?(脱出するためには究めることだ)空腹に耐えながら歩き続けどもたどり着けなかった時、果たして超越できるのか。もの言わぬ子、空想しかできぬ子らは誰が救うのか?生きている世界で髪を求める。天と地を求める。不条理ゆえにルールを定める。一定の、あるところで線を引く。流れゆく中で失われた自己を取り戻す。一体となって世界を取り戻す。子らの見ていたものは何か。幻想と産まれた空想は戯れ、輪を成す。夢游するようにするように魂ー意識を解放させ、外界との融和を試みるのだ。合一。語るべき言葉のない世界へ並行して泳ぐものが、彼の孤独を埋める。そこに神が必要ないと言えば、神は存在しないことへの道となる。並行して彼とある。体温が上昇する段階で寒気がするのは、対称する己に奪われるからである。対称が己/彼なら果たして世界ー風景は鏡面構造を成しているのだろうか。有り様のない心象を果たして映像として具現化できるのか。夏の暑さが失われてくる秋の夜に、熱情も失われるのだろうか。朽ちていく家に住む者は、朽ちてゆく己の細胞とともに精神も衰えていくのだろうか。

草稿 #7

食虫植物は生い茂り繁殖する動物は新たな萌芽を迎える。孤独におびえる中年の男は、そのひ弱な肉体と虚弱な精神が苛烈な競争に敗北し、ひっそりと朽ち果てるのである。年老いた母の老いさらばえた悩みに己の無力さを痛切に感じ、そのままの生活は続かないという現実を悟るのである。孤独相に追いやられた者は、その暗き穴の中で狂人と化す。今生の世界に未練はあるのか。言語にならざる言葉の呻きが聞こえるか。絶え間なく汚染されてゆく空気に耐え続けることができずに、どうにか助かろうと手を伸ばしあがく。毎日が連続する間断なき射撃、絶滅をさけられことはすべての生物に言える。再現のない孤独相に落ちた男は行きずりの相手もおらず、ただひたすらに時間を空費する。ただ脅え、苦しむのみの惨めな生活を送り、過去に断罪され、助かる当てもないーあてがないのは当然だ。当人に全く努力がない。行けども行けどもというのではない。全く動いていない。転がっていないのである。誰からも声がかけられないのを不思議に思っているようでは助からない。そこに老人の原型いるだけである。世界は動いているのに小さな居室で何がわかろうか。助けてほしくば声を上げろ。革命を起こしてみろ。しかし、と続くならばもう終わりにしたい。彼はどうしたいのだ。刹那的な所業は、決して報われない。巨大な像を建立したのはなんだったのか。気の迷いであったといえば、全てが理解できるわけではないのだ。異臭ただよふこの部屋で私ははたして彼のようになれるのか。世界には私よりもたくさんの知識を持っているものが溢れているのだ。何に近づけたのだろうか。私は私のうち以外は知らない。私さえも何者か知らない。私が何者かであるのは、存在によって意識かされている。寝てしまえば、無意識になるが、それも所詮、存在しているが故の無意識である。他人からも誰からも存在を確認できなければ、それはの己の存在が他の存在と境界線があることを認識するであろうが、私は言葉を交わすことができる。ゆえに、他の存在と同じように存在と非-存在を抱えているのである。積み重ねてきた存在としての時間は私が惑うことなき存在であることを確信させるのに十分である。ここにいるのは誰か?という問いに私は動揺するかもしれないが、内心では認めているのである。花火は散った/何も残さず/いや光とともに闇を残して/私は地球が動いているのが信じられない/いや天が動いているのも信じられない/世界が動いているのは当たり前なのに/私は動かずに世界を捉えようとしている/呆れた所業だ/いつか通じ合えるのだろうか/宇宙と/隔てている電離層を抜け/地上の魚たちと/私がたわむれているように/星々の間をあるくことができる日は来るのか/ひとを信じるように時を信じて待ってみようか/どこまでも続くこの踊り手の指先のように/惑うことのない世界を「とらえることなど不可能に思える。立体的な視座を持たない私に、何を語ることができるだろうか。私は私の妄想の中でしか生きることはできないのでだろうか。持たざる者は息絶えるまで持たざるものなのだろうか。

草稿 #6



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明けの明星、世界に朝が訪れるとき、空虚に酸素が満ちてくる。過去を振り返り無き音の声を聞くことはない。死人は今を生きる者に写されているのである。長冗なる説明はいらない。私は私である前に何千という死人を見てきたのだ。それは暗部に触れてきた人間は皆見ており、人生に一度たりとも暗部に触れない人間とは、意識が開花する前に死んでしまったようなマイノリティに限られる。始まりがあればお笑いがある。始まりと終わりは似たようなものか。何億という死に、真実を見出すことはできたのか。誰にも説明できない配列の中で、大きな黒い穴が待っている。世界の終焉を誰が見届けるのか。死は完全であり、生もまた完全である。Death is perfect.つたない言語を用いるならば、世界は常に不確定でありながら、目の前にそびえ立っている。膨大な量の海水は、世界を冷やしている。循環し、一つの変数として機能している。一つの祖父は、孫に対して隔世遺伝するが、その死に様において孫に死を教える身でもある。世界が不完全なあり様を見せつつも世界はどんなレベルにおいても完全であることを示すように、祖父は人間として生物としてしての完全をその身の不完全さによって教えるのである。born to die.世界は終焉する。始まりはその偶発性によって不確定とされるが、その条件に、神を見出す根拠を求めてはいけない。死にたいのなら死ねというのは、世界における生の蹂躙である。鈍痛がする頭に水を浸したタオルをのせるが如く、生の危機において愛情を注ぐのである。絶命とは?延長されない時間は観測者の死によって無間遠に引き延ばされるか。生物的属性は、ある起点から、増殖ー平衡ー減少ー帰化の過程でもある。絶対的権威の崩落は、その平衡状態の崩れから産まれてくる。新たな発生的誕生が領土を拡大するのである。世界はその核において多様的変質を遂げる。老人が世界を知っているとは限らない。もっと深く言及するならば、最も初期において世界は知らされているのである。その抽象的実像から世界を読み取ることができれば、時間というものは一つの移動に過ぎないことがわかる。孤独線から孤立線へと移動する試み。理解されないから多弁を要する。新たな立ち位置に戸惑う者は、己のの理解の薄さにいつ気づくのだろうか。その系譜に連なる名、時系列で並べられた命に問いが与えられる。奇怪な病に侵される集落は、世界内においてある一定の数と条件を考えれば、当たり前の確率として統計にあらわれる。不落の街、消失する村は、移民すら寄せ付けない。詭弁を弄する政治家は個としての真実を失い、集団的という語に依拠する。日々の時の移ろいに割り込んでくる異物は、遊牧的国家を気づいた一族の末裔であり、その強靭な足腰と鍛えられた馬によって、日常を席捲する。蝉は鳴き始め、夜が明け、夏という季節の中心に位置する苦難は、平静な暮らしの中に潜む蛭である。

 

草稿 #5

そこに生まれてきたものへの殺意は、無限に拡大される。一定ではない宇宙であるならば、世界は普遍的とはいえない。有象無象の類はあれども世界にはある物しか観測されず、ないものなど確認する術はない。ポテンシャルの持つ意味とは能力である。力能である。孤独を乗り越えることができるのならば、人生はずいぶんと楽になるだろう。物語に出てくる自立した存在は全く参考にならない。孤独の絶望を知らぬ者が書いた小説など読んでも足しにはならない。臭気が漂う下水に住む小さな蟲は、空を知らない。Who does it.Who plays soccer.世界からの逸脱。知覚する器官が、器官としての能力としての能力が衰えたならば、世界は急速に衰えてゆく。進行する先行する革命である。退行と進歩の繰り返しの中で求める解は、滅亡か繁栄か。饒舌な男は、世界を代弁しているわけではない。何もかも失われたなら次にあるものは何か。全て失われたなら何もないところへ帰るだけであろうが、何もないところから生まれた私達は新たな世界へひょっこりと顔を出すのかもしれない。何かしらの期待を胸に存在し続けるならば、決してバッドエンドへ訪れないのか、孤独な病者は、どこをさ迷うのか、行き詰った者たちは、世界に絶望している。この世界の越境を目論んでも、先が見えないのである。無為真実とは何か?もう絶望の淵で世界を終わらせるのか。ありき世界のその姿を克明に記すのであれば、一時とて眠ることも許されない。知力の尽きる点まで、猛進しなければならぬ。そして世界の縁の切れ目、密室の中で描かれた世界は果てしなく透明である。澱んだ空気も射さない光も全てがなかったかのように克明に記されているのである。逃避するべきところもなく、腐って死んでゆく。どこに希みを見出せばいいのか。否定された世界、貧困、何を見て私は私であるのか。すべての欲望を断ち切り、孤居に耐えられるのか。分裂した細胞のように新たな空間を手に入れることができるのだろうか。狭い部屋を与えられ、最低限の生活を強いられる中で、生命としての退化に歯止めをかけることが可能だろうか。十代二十代の頃のような根拠のない希望というものは四十代を迎えた今、存在しない。物語を描く中で、新たな地平を見出すことができるなら、私は書き続けるべきなのか。全くの希望のない中で、希望どころか不安に苛まされながら書くことは、精神の救済となるだろうか。死人と欠落に繋がる線分は、互いに干渉し合い、分裂症者の中で同居し始める。世人との乖離をしている分裂症者は土地の衆に関わってはいない。歴史の中において隔離された存在の補償というものはみられない。あくまで存在を許されるのみである。球体を成す世界において、平面はミクロ的な視野であり、その不可思議な情景は、ある一定の限られた理解しか得られない。大きな負荷に耐えられない者は、加速されることなく自らの熱で焼け死んでしまう。炎は全き世界の負荷であり、世界のエネルギーは人々の活動に大きく関係してくる。

TKG

僕の食欲は異常だ。抗精神病薬を飲んでるのが大きいと思うのだが、とにかく食う。そのせいで糖尿病になるのが怖いので、食べるものには、気をつけている。納豆、柿の種、豆腐、そしてたまごかけご飯だ。日本の代表的ファストフードであるたまごかけご飯だが、ひとそれぞれ作法が違うと思う。今日は僕のたまごかけご飯を書きたいと思う。

 

まずはタマゴ。

 


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白タマゴ、赤タマゴがあるが、別に赤タマゴが好きなわけではない。白タマゴでもおいしいものはおいしい。特にサイズがバラバラで安く売っているタマゴが意外においしい。

 


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黄身は割ったとき崩れないのがいいらしい(かーちゃん談)

 


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かき混ぜる。このくらいが好き。

 


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醤油は多め。ご飯にかける前にタマゴに混ぜておく。味付けはしっかり。

 


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かなり濃いめかな?

 


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出来上がり。見た目は全然おいしくなさそうですが、うまいんです。栄養満点でお腹も膨れます。米とタマゴ、日本に生まれてよかった。それでは皆さんもよきTKGライフを!