草稿 #2

  精神の不調もある意味肉体の不具合。しかし、そういっていられるのも幻覚、幻聴がないから、高揚や絶望に対して精神はある程度の制御の可能性を見出すが、制御不能の脳の暴走に対しては、抗精神病薬に頼らざるをえない。

 生活に対する絶望的不安が創作の源泉になることもある。繰り返される思慮に自存在が耐えられないのである。不安に対して打ち返すボールは果たしてどこまで飛ぶのか?精神の幾何学、交差する線分は私に不安を覚えさせる。死の世界へ突入する悲劇は果たして真実か?唯一の世界を奪われ聴覚さえもなかんずく失われる。失われたのは瞬間と肉体だけではないのではないのか?決して世界はありはしないという者に対して反論することができるのか?孤独、絶望して身投げしようとする者に、私は言葉を持たない。幼稚なものから幼稚なものへ発達していない発語について判断することは難しい。端的に語られる文節から、汲みだされる彼の内面は、世界内ー存在に対して不安を吐露することはない。埋もれてゆく語り手に対して謙虚であること、抽象化されてしまう反復が、世界の多数であることを忘れてはならない。苦しみはいつか報われるのか?問いに対する答えは簡単には得られない。EASYに世界は残虐である。絶命ー死ぬまでのモラトリアムは、どのくらいなのか?すべては神の意のままに翻弄されるのみなのか?窓から飛び降りればすべて返してもらえるのか?脅え暮らす日々の中に安寧はあるのか?世知辛く救いなぞ道に転がっているものではない。世間体は捨てた。be on the street.ハングリー精神はいかに身を助くるのか?悪行を重ねたゆえに、仏心は念仏となり信心は神を崇めるのである。革命に対して冷静に見るなら、それは一時の熱狂であって、祭りが終われば、すべてはなかったかのように静かな日々が訪れる。暴徒もいつかは死ぬ、もしくは殺される。繰り返し繰り返し単純なことに耐えられる者が長生きするのが生命の理である。独り勝ちはありえない。時代が変わればすべてはなかったかのように思えるのである。ひとつ線引きするならば数学のように整った世界であれば、彼らは解を得ることが可能であるのだが、混沌とした解の多重性が認められるのであるならば、一つの解に多項式があらわれる。震えている狂人と猫は等しく弱者のカテゴリーー項に組み込まれある婦女子の編物にある世界性似た者として認知することができる。ぼやけた頭で認知することは、世界がそこにあるものとして世界から逃げ切ったということか。世界は存在する。存在の根拠としての意識は、何に寄って担保されるのか。鷹揚とした態度も、その世界にあると思われる諸物からの対比ゆえに満たされているのである。