二十歳くらいまでのこと

 僕は昔からメンヘラっぽかった。さかのぼれば幼稚園時代、挨拶をしない子供だった。父の仕事の都合で、4歳のときに大阪から四国に移ってきたのだが、新しい幼稚園になじめず、毎日幼稚園で泣いていた。その頃の思い出といえば、毎日廊下で泣いていたのと、砂場でダムを造っていたのと、園児の皆が野球をやっていたのを見ていたくらいの記憶しかない。でも一度だけ小さな声で先生に挨拶をしたとき、先生に褒められたのを覚えている。ほんとに一度だけなのだけど。

 

 小学校に上がると喘息がひどくなり、よく学校を休んだ。夏休みになるとほぼ毎年のように国立の大きな小児病院に入院していた。そのせいで夏休みの宿題が全部できなくても怒られなかったというメリットもあったのだが、喘息の発作はほんとうに苦しいし、発作が出てなくても、運動をしただけで気管が収縮し、呼吸が苦しくなった。勉強の方は何故か無難にこなせて、進級できないということはなかった。学校に行ってないのに、クラスの委員長にさせられたこともあった。いじめも少なからずあった。そいつからは中学に上がってもいじめられ、今でも恨んでいる。そいつのせいでメンヘラ度が上がったからだ。

 

 小学校のころから、あまり友達はできなかった。コミュニケーションに不安を感じていた。でもまだ小学生の頃はよかった。中学の頃もいじめられてはいたが、友達はいたし、本格的にメンヘラっぽくなってきたのは高校のころからだ。まずクラスメイトに話しかけるのが不安だった。自分から話しかけることはあまりなかった。休み時間が苦痛だったし、昼休みは針のむしろだった。学校に行きたくない日も増えた。しかし小学生の頃のようには、喘息の発作も出なくなっていたので、休む理由がなかった。時折、学校を休むというのは、メンタルにはいいのかもしれないと思う。

 

 そして大学時代。高校のころから勉強は芳しくなく、第一志望には落ちたが、なんとか大学には行けた。しかし高校と違い周りはほとんど知らない土地から来ている人たちばかり。ここで思いっきりコミュ障を発揮した。しらない方言でしゃべってる人はまるで外国人のように思え、まったく話しかけられなかった。クラスにいた2人の同じ高校の人とばかり話すようになった僕は、当然のようにクラスに馴染むことができず、周りからも話しかけらることもなく、孤立していった。安アパートに帰っても一人で、七人家族だった実家では感じなかった絶望的な孤独感でいっぱいになった。

 

 学校の授業も高校の頃とは違い、90分もあったので、元々集中力が長続きしない僕は授業の途中で退席することが多くなっていった。大学の授業に身が入らなくなり次第に学校行かなくなり、パチンコに通ったりもしたが、当時は何が面白いのかわからなかった。しかし稼げるので時折行っては、小遣いを手にしていた。アパートに帰れば、PCも持っていなかったので、レンタルビデオ屋で借りてきたVHSのビデオを見たり、古本屋で買ってきた文庫本を読んだりしていた。この頃から本格的にメンタルがおかしくなっていった。酒をを飲んでも気持ちよくならない体質らしく、タバコを吸っても何がいいのか全くわからなかった。当時、スピードというドラッグが流行ってるらしいという本を読んでは、多少の憧れを持ったり、完全自殺マニュアルという本が売れていた時代だった。どんどん孤独にはなっていっていたが、死への願望というものはなかった。というより、死への恐怖に満たされていた。

 

 そしてある日、パチンコ屋で時間を潰していたとき、激しい頭痛に襲われ、すぐに外に出たのだが、頭痛が治まらず、明らかにおかしいので、病院に向かった。すると血圧が180くらいまで上がっており、しかしその時は降圧剤を処方されることもなく家に帰され、一人で死への恐怖を増幅させていた。そして頻繁に病院に通うようになると、医者がある薬を出した。飲んでみると気持ちがすっとして気分が和らいだ。ドグマチールという薬で、何の薬か本屋に行って薬の事典で調べてみると、適応に「精神分裂病」と書いてあった。さすがにこれは飲んだらまずい薬ではないかと思った僕は、飲むのを止め、病院には行かないことにした。しかしドグマチールを止めると、今度は体が動かなくなり、世界が赤く染まっているような変な夢を見たり、どんどんおかしくなっていった。遂に、その生活に耐えられなくなった僕は、実家に電話をかけ、母にアパートまで来てもらった。本当におかしくなってしまっていたからだ。そして母と二人で病院に行ったところ、精神科の受診を勧められたのである。それが大学4年の春のことである。