草稿 #4

適応を果たした彼らは生き残るのである。小さな甲虫は、世界を踏みしめている。小さき体に時間が濃縮されている。死が遠くにあるとき、生もまた遠い。死が近くにある時mまた生も近づいてくるのである。世界は遠近法にて私の充足を決定する。孤独のうちにあってこそ、私の深淵はさらに暗くなるのである。翻弄されるマイノリティは存在の辺境である。強い力に容易く足場を失ってしまうが、抵抗しないわけではない。じっと待っているのである。まるで自失したように不動になるときがあろうとも、世界に牙を剥くときを選んでいる。待っている。善行なくしては人が生きることができないというのが社会である。ここで善と悪という曖昧な概念を持ち出してきたのは、私がひとえに凡庸だからである。縛られたくはないものに縛られているのである。肥大化した世界は行間で揺れ動く虫のようだ。許されるのか許されないのか、裁判はまだ先だ。裁かれて私は地の底に落ちるか、拾われて今の地上にいることが許されるのか。私は死にたくない。隠し続けていても、精神は疲弊し続けるだけだ。羽をもがれたトンボのようにただの這い回る虫に落ちてしまった。ただひたすら時間を食いつぶすだけの毎日はあまりにも過酷だ。己の体の内部に目を向ければ世界は遠ざかる。見捨てられた病者は孤独で泣いている。悲嘆にくれ、世界を恨む。あまりに負け続けると病む。世界は暮れなずむ。ゆっくりと地平線が消えるとき、空は失われる。絶望、その無間の呵責。一方的な光は敗者を照らすことなく通過していく。意識の開闢。世界は広がっている。目の前にあれども精神の枝葉は簡単には広がらない。開闢のきっかけは何なのかものわからない。きっかけ、それはある種の高揚かもしれないし、絶望かもしれない。正負だけでは語れない。閉じられた空間に満ちたエネルギーは、指向性を持っているのか?狂人化する男は、何を目指していたのか?あらゆる方向に世界が開かれている根拠は何か?言うなれば詩編は何故あんなにもつまらないのか?くだらないものに満たされた容器に絶望したとしても、現代では生きていく糧を持たぬものに居場所などないのではないか?究るに世人において分裂した家族は、子孫の繁栄とともに多様化するようになる。起点ー不明な始まりにおいてそこから確定的な未来は見えない。孫において祖父の面影を見出すものがいなくなる。知らない、わからない、そういう風にできているのである。貫通された耳に意識は響くのである。指をくわえてみている幼い子供のようなものだ。不断の系譜というものがあるとするならば、それは神である。成立から数代、十数代続くようなものでも神格化されようが、不断となれば世においてもいつか認められていよう。幸福えであろうが不幸であろうが。一時の栄華もない人生は多数存在しているのである。ある日突然終了してしまうゲームに強制的に参加させられている。それに反旗を翻したところで、結局は無というはかり知ることのできない状態に追い込まれるだけだ。世界(現実世界)にしか存在できないのであるから、私たちのイデアは常に縛られているのである。

草稿 #3

 環境は人を狂わし、意識は変容する。その過程において躓きがあるならば、そこから転落していくことを逃れることはできない。異界からの言葉、日常の言説、世話、世間、非ー世間、懐かしい映画、孤独、神の使い、引き千切られた肉片、ハルジオン、銀、臭素、天体、地上、我々の産まれた場所。なんの不思議なことはない、世界は目の前にあるのだから。疑問形で包まれた煩悩、根拠なき不安、立ち止まる、生まれた時に起こる疑問、吐き出された不満、満たされぬ器、酩酊した男が叫ぶ、殺してくれと。世界世界というが風景である。風景という語に置き換えてみるならば、世界はより表面的なものであることがわかる。ここにある薬、抗精神病薬ジプレキサという名前であるが、これが風景を変える。世界を変えてしまえるのである。ある異物が風景を侵食していく。これは世界が侵食されていくことと同義であるか?近傍にあるとは言える。しかし同義に等しいとは言い難い。風景が変わることが嫌な者は世界が変わることが嫌なのか。革命家は現状というものが構築されている状態を変えてしまったという抗しがたい欲望に取りつかれているのである。No quolity.No ability.kick kick kick.背にある風景に気を取られていると、目の前の世界を見失ってしまう。be ableに線を引く。記述される言葉には、規定された線がある。形を変えた線は意味を持ち、理解するものにとってはそれが何者かに成る。成るのである。空白。空白に置かれる文字が、形を持った絵が、牛が牛であるとする条件を残したならば、道に牛はいるのである。歩いているのである。私は邪念から構築されている。architecture.唯物的に物を語れるのなら私は現実を直視できるであろうが、邪という抽象物を意識する毎日にただただ脅え続けているのである。kickという語がkidに見えるとき、私は戸惑う。半ば強制的に終わらせられたtaskのように、私は崩壊してしまうかもしれない。もちろん過去のデータなども失われる。時間というものの持つ反面性、不可逆であるがゆえの残酷さが人々に恐怖を教えるのである。小さきものの叫びは団地に響く。私はチルドレン。複数形の私は町であり国であり世界である。二重の語は一つの舌から発せられる。作られ加工されるのである。無尽蔵。世界は破滅していない。明日が来る。不愉快にも奴は生きているだろう。優越な者だけが生き残る、世界を夢見る政治家は己の不具を理解していない。彼は自ら堀った穴に落ちるだろう。自ら作った王国の民に焼き殺されるのだ。その時に懇願しても遅い。時は過ぎ去ってゆく風景なのだ。世界が風景になるのだ。己の作り上げた世界が美しければ美しいほど、その残虐性は増す。彼はきっと許されないだろう。民はマイノリティであるかもしれないが、マイノリティは生き延びたのだ。

草稿 #2

  精神の不調もある意味肉体の不具合。しかし、そういっていられるのも幻覚、幻聴がないから、高揚や絶望に対して精神はある程度の制御の可能性を見出すが、制御不能の脳の暴走に対しては、抗精神病薬に頼らざるをえない。

 生活に対する絶望的不安が創作の源泉になることもある。繰り返される思慮に自存在が耐えられないのである。不安に対して打ち返すボールは果たしてどこまで飛ぶのか?精神の幾何学、交差する線分は私に不安を覚えさせる。死の世界へ突入する悲劇は果たして真実か?唯一の世界を奪われ聴覚さえもなかんずく失われる。失われたのは瞬間と肉体だけではないのではないのか?決して世界はありはしないという者に対して反論することができるのか?孤独、絶望して身投げしようとする者に、私は言葉を持たない。幼稚なものから幼稚なものへ発達していない発語について判断することは難しい。端的に語られる文節から、汲みだされる彼の内面は、世界内ー存在に対して不安を吐露することはない。埋もれてゆく語り手に対して謙虚であること、抽象化されてしまう反復が、世界の多数であることを忘れてはならない。苦しみはいつか報われるのか?問いに対する答えは簡単には得られない。EASYに世界は残虐である。絶命ー死ぬまでのモラトリアムは、どのくらいなのか?すべては神の意のままに翻弄されるのみなのか?窓から飛び降りればすべて返してもらえるのか?脅え暮らす日々の中に安寧はあるのか?世知辛く救いなぞ道に転がっているものではない。世間体は捨てた。be on the street.ハングリー精神はいかに身を助くるのか?悪行を重ねたゆえに、仏心は念仏となり信心は神を崇めるのである。革命に対して冷静に見るなら、それは一時の熱狂であって、祭りが終われば、すべてはなかったかのように静かな日々が訪れる。暴徒もいつかは死ぬ、もしくは殺される。繰り返し繰り返し単純なことに耐えられる者が長生きするのが生命の理である。独り勝ちはありえない。時代が変わればすべてはなかったかのように思えるのである。ひとつ線引きするならば数学のように整った世界であれば、彼らは解を得ることが可能であるのだが、混沌とした解の多重性が認められるのであるならば、一つの解に多項式があらわれる。震えている狂人と猫は等しく弱者のカテゴリーー項に組み込まれある婦女子の編物にある世界性似た者として認知することができる。ぼやけた頭で認知することは、世界がそこにあるものとして世界から逃げ切ったということか。世界は存在する。存在の根拠としての意識は、何に寄って担保されるのか。鷹揚とした態度も、その世界にあると思われる諸物からの対比ゆえに満たされているのである。

草稿 #1

 世界中に広がるego 国に住む犠牲、ああ無情無常。有象無象の叫びの化身。世界が崩壊していく、ユピキタスの森で住む動物たちは野性を失いつつ私は私であることに自問自答する。森は優しくないのである。世界の辺境であろうとも血を流す刃が至る所に仕掛けられている。こっこにつながる道は世界の一部とはいえ都市には忘れられた辺境ー片田舎ー最果ての精神のよすが、道を誤ったが戻れない。不安な毎日に追いつかれそうだ。不安は創作させる。創作せずにはいられない。敵は自分だ。It’s up to you.まさに自分次第だ。裁かれることに脅え、未来が断ち切られる日を待つのか?

 安定が打ち砕かれるのはわかっている。しかし安心というものは日常に平穏を与えてくれる。日常の離脱が訪れるまでの平穏が幸福なのである。罪を背負って罰を恐れる。そんな生活はイヤだ。

 

 血痕

 

 私に残された血痕は、狂ってしまう脳を持ったひ弱な気管支である。叙情は抹殺され、嘆きは世界に届かない。何が正確で不確かなものは何か、応えてくれない平原に我らは集う。超越する必要なんてない。普遍的であることさえ不可能なのに不可塑性を持とうなどとは思うまい。ゆっくりと平原は動いていく。世界が微塵ともしなくても、平原は森は動く。動くのだ。疾風迅雷、駆け抜ける。黒い影、急激に狭まる視界。失われゆく聴覚。全てを無に帰すために生きているのだno n sense -nonsense 苦しみの苦しみが痛みとなって還ってくる。視界は全く不全で、善などは忘れ去られた悪行の限り、そうなっても生活は変わらない。世界に従って収斂してゆくしかないのだ。

 不思議と貧困の生活にも慣れというものが生まれてきている。人から見れば余程苦しいのであろうと思えるような生活ぶりでも、あえてそこに飛び込んでみれば、いかようにでもなるのである。生活での身近な地域はどれほど裕福なのかは知らないが、飯が食える、汗が流せるだけで不思議と痛みは和らいでくる。

8月も終わる

 8月も終わる。それでもだるい。だるいといえば冬だった気がするが、40を越え、夏もだるくなった。お盆に家族が集まって食事に行ったのだが、ぼくはいかなかった。統失的には一人でのんびり食べるのが楽だから。でも兄弟の交流も薄くなってくると、かーちゃんがよぼよぼになったり、寝たきりになったり、死んでしまったりしたらどうしようという不安がどんどん増してくる。弟が今年入籍したのだが、全くあてにならない。嫁の親の住んでいたマンションで住むことになったらしい。兄も嫁のところ、弟も嫁のところ、かーちゃんと俺の2人暮らしはいつか破たんする気がする。統失の俺的には自治会とか近所付き合いとかは、できる限りやりたくない。つらい。今はかーちゃんがやったりやらなかったりしている。田舎なので統失というものが昔でいうところの精神分裂病で、かなりやばい存在であることは、あまり知られていないせいか、僕はただの引きこもりだと思われている節がある。無理なんですよ、無理。健常者はまるで理解なし。つらい思いは障碍者が背負うのみ。通ってる内科の院長は「なんで働かないんだ」と精神障碍者を叱責する。あまりにもきついので違う曜日の先生変えたけど。楽して楽しく暮らしているわけないじゃん。43にしてかーちゃんの扶養に入ってて、つらくないわけがない。それがわからないんだよね。ちょっと内職でもとネットで探して、打ち込みの内職をしてみても、すぐに動けなくなって挫折。メンヘラスネップはきついんよ。旅行にでもいけたらなあと寝込みながら妄想するけど、現実は通院もあるし、調子を崩して旅先でODとか洒落にならん。結局、自室にこもってネットでもしてるのが一番体調的にも安定する。周りにも迷惑かけんし。4ねとか幻聴にも言われていたが、働けなくなった今ではみんな俺が4ねばいいと思っているかもね。