草稿 #7

食虫植物は生い茂り繁殖する動物は新たな萌芽を迎える。孤独におびえる中年の男は、そのひ弱な肉体と虚弱な精神が苛烈な競争に敗北し、ひっそりと朽ち果てるのである。年老いた母の老いさらばえた悩みに己の無力さを痛切に感じ、そのままの生活は続かないという現実を悟るのである。孤独相に追いやられた者は、その暗き穴の中で狂人と化す。今生の世界に未練はあるのか。言語にならざる言葉の呻きが聞こえるか。絶え間なく汚染されてゆく空気に耐え続けることができずに、どうにか助かろうと手を伸ばしあがく。毎日が連続する間断なき射撃、絶滅をさけられことはすべての生物に言える。再現のない孤独相に落ちた男は行きずりの相手もおらず、ただひたすらに時間を空費する。ただ脅え、苦しむのみの惨めな生活を送り、過去に断罪され、助かる当てもないーあてがないのは当然だ。当人に全く努力がない。行けども行けどもというのではない。全く動いていない。転がっていないのである。誰からも声がかけられないのを不思議に思っているようでは助からない。そこに老人の原型いるだけである。世界は動いているのに小さな居室で何がわかろうか。助けてほしくば声を上げろ。革命を起こしてみろ。しかし、と続くならばもう終わりにしたい。彼はどうしたいのだ。刹那的な所業は、決して報われない。巨大な像を建立したのはなんだったのか。気の迷いであったといえば、全てが理解できるわけではないのだ。異臭ただよふこの部屋で私ははたして彼のようになれるのか。世界には私よりもたくさんの知識を持っているものが溢れているのだ。何に近づけたのだろうか。私は私のうち以外は知らない。私さえも何者か知らない。私が何者かであるのは、存在によって意識かされている。寝てしまえば、無意識になるが、それも所詮、存在しているが故の無意識である。他人からも誰からも存在を確認できなければ、それはの己の存在が他の存在と境界線があることを認識するであろうが、私は言葉を交わすことができる。ゆえに、他の存在と同じように存在と非-存在を抱えているのである。積み重ねてきた存在としての時間は私が惑うことなき存在であることを確信させるのに十分である。ここにいるのは誰か?という問いに私は動揺するかもしれないが、内心では認めているのである。花火は散った/何も残さず/いや光とともに闇を残して/私は地球が動いているのが信じられない/いや天が動いているのも信じられない/世界が動いているのは当たり前なのに/私は動かずに世界を捉えようとしている/呆れた所業だ/いつか通じ合えるのだろうか/宇宙と/隔てている電離層を抜け/地上の魚たちと/私がたわむれているように/星々の間をあるくことができる日は来るのか/ひとを信じるように時を信じて待ってみようか/どこまでも続くこの踊り手の指先のように/惑うことのない世界を「とらえることなど不可能に思える。立体的な視座を持たない私に、何を語ることができるだろうか。私は私の妄想の中でしか生きることはできないのでだろうか。持たざる者は息絶えるまで持たざるものなのだろうか。

草稿 #6



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明けの明星、世界に朝が訪れるとき、空虚に酸素が満ちてくる。過去を振り返り無き音の声を聞くことはない。死人は今を生きる者に写されているのである。長冗なる説明はいらない。私は私である前に何千という死人を見てきたのだ。それは暗部に触れてきた人間は皆見ており、人生に一度たりとも暗部に触れない人間とは、意識が開花する前に死んでしまったようなマイノリティに限られる。始まりがあればお笑いがある。始まりと終わりは似たようなものか。何億という死に、真実を見出すことはできたのか。誰にも説明できない配列の中で、大きな黒い穴が待っている。世界の終焉を誰が見届けるのか。死は完全であり、生もまた完全である。Death is perfect.つたない言語を用いるならば、世界は常に不確定でありながら、目の前にそびえ立っている。膨大な量の海水は、世界を冷やしている。循環し、一つの変数として機能している。一つの祖父は、孫に対して隔世遺伝するが、その死に様において孫に死を教える身でもある。世界が不完全なあり様を見せつつも世界はどんなレベルにおいても完全であることを示すように、祖父は人間として生物としてしての完全をその身の不完全さによって教えるのである。born to die.世界は終焉する。始まりはその偶発性によって不確定とされるが、その条件に、神を見出す根拠を求めてはいけない。死にたいのなら死ねというのは、世界における生の蹂躙である。鈍痛がする頭に水を浸したタオルをのせるが如く、生の危機において愛情を注ぐのである。絶命とは?延長されない時間は観測者の死によって無間遠に引き延ばされるか。生物的属性は、ある起点から、増殖ー平衡ー減少ー帰化の過程でもある。絶対的権威の崩落は、その平衡状態の崩れから産まれてくる。新たな発生的誕生が領土を拡大するのである。世界はその核において多様的変質を遂げる。老人が世界を知っているとは限らない。もっと深く言及するならば、最も初期において世界は知らされているのである。その抽象的実像から世界を読み取ることができれば、時間というものは一つの移動に過ぎないことがわかる。孤独線から孤立線へと移動する試み。理解されないから多弁を要する。新たな立ち位置に戸惑う者は、己のの理解の薄さにいつ気づくのだろうか。その系譜に連なる名、時系列で並べられた命に問いが与えられる。奇怪な病に侵される集落は、世界内においてある一定の数と条件を考えれば、当たり前の確率として統計にあらわれる。不落の街、消失する村は、移民すら寄せ付けない。詭弁を弄する政治家は個としての真実を失い、集団的という語に依拠する。日々の時の移ろいに割り込んでくる異物は、遊牧的国家を気づいた一族の末裔であり、その強靭な足腰と鍛えられた馬によって、日常を席捲する。蝉は鳴き始め、夜が明け、夏という季節の中心に位置する苦難は、平静な暮らしの中に潜む蛭である。

 

草稿 #5

そこに生まれてきたものへの殺意は、無限に拡大される。一定ではない宇宙であるならば、世界は普遍的とはいえない。有象無象の類はあれども世界にはある物しか観測されず、ないものなど確認する術はない。ポテンシャルの持つ意味とは能力である。力能である。孤独を乗り越えることができるのならば、人生はずいぶんと楽になるだろう。物語に出てくる自立した存在は全く参考にならない。孤独の絶望を知らぬ者が書いた小説など読んでも足しにはならない。臭気が漂う下水に住む小さな蟲は、空を知らない。Who does it.Who plays soccer.世界からの逸脱。知覚する器官が、器官としての能力としての能力が衰えたならば、世界は急速に衰えてゆく。進行する先行する革命である。退行と進歩の繰り返しの中で求める解は、滅亡か繁栄か。饒舌な男は、世界を代弁しているわけではない。何もかも失われたなら次にあるものは何か。全て失われたなら何もないところへ帰るだけであろうが、何もないところから生まれた私達は新たな世界へひょっこりと顔を出すのかもしれない。何かしらの期待を胸に存在し続けるならば、決してバッドエンドへ訪れないのか、孤独な病者は、どこをさ迷うのか、行き詰った者たちは、世界に絶望している。この世界の越境を目論んでも、先が見えないのである。無為真実とは何か?もう絶望の淵で世界を終わらせるのか。ありき世界のその姿を克明に記すのであれば、一時とて眠ることも許されない。知力の尽きる点まで、猛進しなければならぬ。そして世界の縁の切れ目、密室の中で描かれた世界は果てしなく透明である。澱んだ空気も射さない光も全てがなかったかのように克明に記されているのである。逃避するべきところもなく、腐って死んでゆく。どこに希みを見出せばいいのか。否定された世界、貧困、何を見て私は私であるのか。すべての欲望を断ち切り、孤居に耐えられるのか。分裂した細胞のように新たな空間を手に入れることができるのだろうか。狭い部屋を与えられ、最低限の生活を強いられる中で、生命としての退化に歯止めをかけることが可能だろうか。十代二十代の頃のような根拠のない希望というものは四十代を迎えた今、存在しない。物語を描く中で、新たな地平を見出すことができるなら、私は書き続けるべきなのか。全くの希望のない中で、希望どころか不安に苛まされながら書くことは、精神の救済となるだろうか。死人と欠落に繋がる線分は、互いに干渉し合い、分裂症者の中で同居し始める。世人との乖離をしている分裂症者は土地の衆に関わってはいない。歴史の中において隔離された存在の補償というものはみられない。あくまで存在を許されるのみである。球体を成す世界において、平面はミクロ的な視野であり、その不可思議な情景は、ある一定の限られた理解しか得られない。大きな負荷に耐えられない者は、加速されることなく自らの熱で焼け死んでしまう。炎は全き世界の負荷であり、世界のエネルギーは人々の活動に大きく関係してくる。

TKG

僕の食欲は異常だ。抗精神病薬を飲んでるのが大きいと思うのだが、とにかく食う。そのせいで糖尿病になるのが怖いので、食べるものには、気をつけている。納豆、柿の種、豆腐、そしてたまごかけご飯だ。日本の代表的ファストフードであるたまごかけご飯だが、ひとそれぞれ作法が違うと思う。今日は僕のたまごかけご飯を書きたいと思う。

 

まずはタマゴ。

 


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白タマゴ、赤タマゴがあるが、別に赤タマゴが好きなわけではない。白タマゴでもおいしいものはおいしい。特にサイズがバラバラで安く売っているタマゴが意外においしい。

 


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黄身は割ったとき崩れないのがいいらしい(かーちゃん談)

 


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かき混ぜる。このくらいが好き。

 


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醤油は多め。ご飯にかける前にタマゴに混ぜておく。味付けはしっかり。

 


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かなり濃いめかな?

 


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出来上がり。見た目は全然おいしくなさそうですが、うまいんです。栄養満点でお腹も膨れます。米とタマゴ、日本に生まれてよかった。それでは皆さんもよきTKGライフを!

 

草稿 #4

適応を果たした彼らは生き残るのである。小さな甲虫は、世界を踏みしめている。小さき体に時間が濃縮されている。死が遠くにあるとき、生もまた遠い。死が近くにある時mまた生も近づいてくるのである。世界は遠近法にて私の充足を決定する。孤独のうちにあってこそ、私の深淵はさらに暗くなるのである。翻弄されるマイノリティは存在の辺境である。強い力に容易く足場を失ってしまうが、抵抗しないわけではない。じっと待っているのである。まるで自失したように不動になるときがあろうとも、世界に牙を剥くときを選んでいる。待っている。善行なくしては人が生きることができないというのが社会である。ここで善と悪という曖昧な概念を持ち出してきたのは、私がひとえに凡庸だからである。縛られたくはないものに縛られているのである。肥大化した世界は行間で揺れ動く虫のようだ。許されるのか許されないのか、裁判はまだ先だ。裁かれて私は地の底に落ちるか、拾われて今の地上にいることが許されるのか。私は死にたくない。隠し続けていても、精神は疲弊し続けるだけだ。羽をもがれたトンボのようにただの這い回る虫に落ちてしまった。ただひたすら時間を食いつぶすだけの毎日はあまりにも過酷だ。己の体の内部に目を向ければ世界は遠ざかる。見捨てられた病者は孤独で泣いている。悲嘆にくれ、世界を恨む。あまりに負け続けると病む。世界は暮れなずむ。ゆっくりと地平線が消えるとき、空は失われる。絶望、その無間の呵責。一方的な光は敗者を照らすことなく通過していく。意識の開闢。世界は広がっている。目の前にあれども精神の枝葉は簡単には広がらない。開闢のきっかけは何なのかものわからない。きっかけ、それはある種の高揚かもしれないし、絶望かもしれない。正負だけでは語れない。閉じられた空間に満ちたエネルギーは、指向性を持っているのか?狂人化する男は、何を目指していたのか?あらゆる方向に世界が開かれている根拠は何か?言うなれば詩編は何故あんなにもつまらないのか?くだらないものに満たされた容器に絶望したとしても、現代では生きていく糧を持たぬものに居場所などないのではないか?究るに世人において分裂した家族は、子孫の繁栄とともに多様化するようになる。起点ー不明な始まりにおいてそこから確定的な未来は見えない。孫において祖父の面影を見出すものがいなくなる。知らない、わからない、そういう風にできているのである。貫通された耳に意識は響くのである。指をくわえてみている幼い子供のようなものだ。不断の系譜というものがあるとするならば、それは神である。成立から数代、十数代続くようなものでも神格化されようが、不断となれば世においてもいつか認められていよう。幸福えであろうが不幸であろうが。一時の栄華もない人生は多数存在しているのである。ある日突然終了してしまうゲームに強制的に参加させられている。それに反旗を翻したところで、結局は無というはかり知ることのできない状態に追い込まれるだけだ。世界(現実世界)にしか存在できないのであるから、私たちのイデアは常に縛られているのである。

草稿 #3

 環境は人を狂わし、意識は変容する。その過程において躓きがあるならば、そこから転落していくことを逃れることはできない。異界からの言葉、日常の言説、世話、世間、非ー世間、懐かしい映画、孤独、神の使い、引き千切られた肉片、ハルジオン、銀、臭素、天体、地上、我々の産まれた場所。なんの不思議なことはない、世界は目の前にあるのだから。疑問形で包まれた煩悩、根拠なき不安、立ち止まる、生まれた時に起こる疑問、吐き出された不満、満たされぬ器、酩酊した男が叫ぶ、殺してくれと。世界世界というが風景である。風景という語に置き換えてみるならば、世界はより表面的なものであることがわかる。ここにある薬、抗精神病薬ジプレキサという名前であるが、これが風景を変える。世界を変えてしまえるのである。ある異物が風景を侵食していく。これは世界が侵食されていくことと同義であるか?近傍にあるとは言える。しかし同義に等しいとは言い難い。風景が変わることが嫌な者は世界が変わることが嫌なのか。革命家は現状というものが構築されている状態を変えてしまったという抗しがたい欲望に取りつかれているのである。No quolity.No ability.kick kick kick.背にある風景に気を取られていると、目の前の世界を見失ってしまう。be ableに線を引く。記述される言葉には、規定された線がある。形を変えた線は意味を持ち、理解するものにとってはそれが何者かに成る。成るのである。空白。空白に置かれる文字が、形を持った絵が、牛が牛であるとする条件を残したならば、道に牛はいるのである。歩いているのである。私は邪念から構築されている。architecture.唯物的に物を語れるのなら私は現実を直視できるであろうが、邪という抽象物を意識する毎日にただただ脅え続けているのである。kickという語がkidに見えるとき、私は戸惑う。半ば強制的に終わらせられたtaskのように、私は崩壊してしまうかもしれない。もちろん過去のデータなども失われる。時間というものの持つ反面性、不可逆であるがゆえの残酷さが人々に恐怖を教えるのである。小さきものの叫びは団地に響く。私はチルドレン。複数形の私は町であり国であり世界である。二重の語は一つの舌から発せられる。作られ加工されるのである。無尽蔵。世界は破滅していない。明日が来る。不愉快にも奴は生きているだろう。優越な者だけが生き残る、世界を夢見る政治家は己の不具を理解していない。彼は自ら堀った穴に落ちるだろう。自ら作った王国の民に焼き殺されるのだ。その時に懇願しても遅い。時は過ぎ去ってゆく風景なのだ。世界が風景になるのだ。己の作り上げた世界が美しければ美しいほど、その残虐性は増す。彼はきっと許されないだろう。民はマイノリティであるかもしれないが、マイノリティは生き延びたのだ。