書いてみた。書くしかないから。

 

 

アカツキ

  

静かな夜に訪れる霊達は
小さな絶望と、希望の切れ端をもってやってくる

 

 

肉体は滅びても
私は走った
駆け抜けた
精神は風とともに
走り抜けた

 

 

積み上げたつぶては
世界を変えることはできない
小さな鳴き声が
部屋を覆う
崩れゆく家に
私は帰らなければならない

 

 

苦しい
呼吸が穏やかではない
この深い夜から続く苦しみは
新たな朝も続く

 

 

スマートフォンから流れる音楽は
私に言葉をつむがせる

 

 

いつもより動けるような気がして
外に出て食料を調達しにゆく
自分の金ではなく親にぶらさがっている私は
いつか自由になりたいと願いながらも
現実をかえりみて仕方ないと
あきらめる
 
 
流れてゆく雲に
雷の居所を訊く
手入れのされてない畑には
野草が群生している
コンクリートアスファルト
整地されてない空き地は
まだ何かの種を受け入れてくれる
 
 
ほんの少しでいいから
今日の御飯を明日に回し
未来が来ても
ひもじい思いをしなくていいように
何でもいいから残すのである
何事も 何事も
フィナーレまで駆け抜ける

 

雷がこわい

 いつからこんなにうちの電源は不安定になったのだろう?よく雷が落ちるようになったのは、近くに運動公園ができてからだと思う。それまでは突如としてPCが逝ってしまわれるなんてことはなかったように思う。うちはたしかにボロ屋だが、富士通のFMVを使ってた頃は、HDDの故障はあったが、電源周りからマザーボードまで逝ってしまわれるなんてことはなかった。それが近くにできた町の運動公園に高い照明塔ができてからというもの、近くによく雷が落ち、PCアダプタがやられたり、電源部がやられたり、マザーボードがやられたりするようになった。雷対策のタップを買ってつけてみても効果はない。なので雷注意報が出たら、コンセントを抜く、LANケーブルも抜く、近づいてきたら、光回線のモデムの電源も抜く。

 

 元々僕は田畑を潰して運動公園なんて作るのは反対だったのだ。全く納得してなかったが、無色のメンヘラに発言権なんてものはない。だからうちの電気回りは不安定になった。どこかに訴えようという気力などない。まして、どこかに移り住むフットワークなどあるはずがない。i7が載っていたマウスコンピュータ(以下マウス)のゲーミングノートは一年目で夜中突如「ポンッ」と音を立てて壊れ、三年目には雷の音がし始めたら異音がし、再起不能になった。マウスは三年保証が限界なのでもうあきらめて、次はデスクトップPCを買った。i7だと壊れたときにショックがデカいからi5にした。でも買った時期が悪かった。買って数か月後にskylakeの次のkabylakeが出たのだ。これならk付きの6600kにしとけばよかったと後悔しつつ、ウィンドウズ10のハイパフォーマンスモードで走らせ、なんとかクロック数を稼いでいる。z170系マザーなので、BIOSを書き換えればkabyも載るのだが、マウスはケチだ。BIOSの更新はしないらしい。また三年保証を付けてるので、三年後に買い替えるか、それとももっと早くお別れするかわからない。経済状況による。ガチメンヘラの経済状況がよくなるとは思えんが。

 

 世の中ではRyzenやらi9やらが出回っているらしく、俺はi7の7740Xが欲しいよーなどと物欲全開で妄想しているが、現実は厳しい。リアリティ・バイツ!それにしてもCore Xシリーズのマザーって高いな。自作なんて金がねーからできんわ。それでも去年の秋に買ったから一応グラボはgtx1060を積んでる。3GB版だが。PUBGも設定下げればできる。黒い砂漠も設定下げればできる。ゲーミングノートの時の爆音はすごかったが、デスクトップはさすがに静かである。

 

 今、Steamでサマーセールをやってる。ニア・オートマタはキーボードでの操作が難しいし、フルHDにならんし、期待外れだ。バイオハザード7はどうなの?面白いの?セールといっても元の値段が高いから、中々手がでない。買ったとしても、集中力というものが抑制されているためあまり遊べない。脳にロックがかかっているのだ。だめだ、だめだ、だめだ。と鬱々としてくることも多く、幻聴が治まってきたと思ったら、耳鳴りがしてきた。年中耳鳴りである。ネットで調べると、耳鳴りは治らないらしく、もう40過ぎたし、もうだめなんだよな、とあきらめている。なので耳鼻科には行ってない。どんどん衰えがきて、腰は痛いし、左の足首も痛いし、いろんなところが痛い。とりあえず食生活を変えてみようと、朝ごはんに炭水化物を摂らないようにしてる。昼も控えめ、だが夜は食う。これで少しは体が軽くなってくれればいいのだが、うまくいったことなんてあまりない。大体、ガチメンヘラで生きてるだけで儲けものの自分が、あれが気に食わない、あれがだめだ、あれがほしい、なんていうのは図々しいにもほどがあるってもんだ。たしかに安楽死施設があっても怖くていけない。死ぬのは怖い。でもだらだら生きていくのはつらい。病んでるのでつらさの感度が人より上がってる気がする。でも親がまだ片方生きていてくれるから呑気なことが言えるだけだ。兄弟は僕の病気を甘くみてて全くあてにはならない。孤独死が現実だ。こんなことを書いていたら鬱になってきた。主は統合失調症だが抑うつ状態にもよくなる。変に物欲が出てきてかるーい躁っぽくもなる。だが基本、陰性症状で動けない。薬で幻聴が減っても、社会に戻れるだけの快復にはなかなか至らないのが現実だ。

 

 動けるようになったら作業所に行ってみたい。時給100円とか200円だが、部屋で一人で一人遊びをしてるよりマシだ。もっと若かった30歳のころは、主治医から月15万くらい稼げるようになるといいね、なんて言われていたが、もう43。もう無理無理無理無理。田舎だから自治会とか面倒だ。今は親が行ってくれてるが、田舎の精神障碍者の一人暮らしは厳しい。内科の病院に行くと看護婦が統合失調症のことを「"総"合失調症?」とか言うくらいである。たしかに肝臓も悪いし、喘息持ちだし、耳鳴りは止まないし、体も精神も総合的に失調状態だけど。

 

 こんな僕でも生きていけてるこの国はすごい。偉大な先人のおかげである。この先の行く末は暗そうだけど、なんとかならなくなったら、ならないようになるだけである。世界にはもっとひどいことになってる国もたくさんあるだろうから。とにかく今はインターネットにつなげられなくなることがこわい。だから雷がこわい。お願いだから僕を見逃してほしい。

 

未完成な詩をアップしてみる

 この詩は去年か一昨年くらいに書いたものを推敲してみたものです。推敲してはみたものの意味がわかりません。タイトルも何も思い浮かばなかったので「無題」にしてしまいました。逃げですね、はい。いいんですよ、逃げで。僕の得意なのは逃げることです。それでもよければ気楽に読んでみてください。

 

「無題」

 

 Dead Death Birth

 世界は美しいなんて簡単には言えない

 Reverse 逆戻り 時間を遡る

 利他 リタ Litarin

 

 

 夕凪の雨の降りたる青アジサイ

 

 逆賊が世界を換金する

 構築された審査機関は、まるで何をやっているのか

 わからない。慄然とした審査委員は座っているKを上から

 見下ろしている。

 世界と呼ばれる町は、都市から遠く離れ、

 近しい世界でつながっている

 

 目の前にあるものが存在しているのか、それとも

 幻なのか

 現実は不安定である。崩壊、徐々に死す



 六月の末、世間体 底辺の体たらく

 

 Vision(ヴィジオン)に

 構築されなかった者の叫び 涙 嗚咽 もうそれは

 聴くに耐えないもの。

 虚構の季節に出会いし彼の猫は、すぐに

 いなくなってしまった



 不安神経症のひどきこと耐え難し

 I have only hopeless

 

 光に耐えきれなかった者が闇へと走る。構成される者達

 の中の官吏が裁く。裁かれた者は、力によって強引に

 収用される。世界は、げに恐ろしきものなり

 

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 はい、わかりません。イメージを惹起させることもありません。いけませんね。出直してきます。

 

二十歳くらいまでのこと

 僕は昔からメンヘラっぽかった。さかのぼれば幼稚園時代、挨拶をしない子供だった。父の仕事の都合で、4歳のときに大阪から四国に移ってきたのだが、新しい幼稚園になじめず、毎日幼稚園で泣いていた。その頃の思い出といえば、毎日廊下で泣いていたのと、砂場でダムを造っていたのと、園児の皆が野球をやっていたのを見ていたくらいの記憶しかない。でも一度だけ小さな声で先生に挨拶をしたとき、先生に褒められたのを覚えている。ほんとに一度だけなのだけど。

 

 小学校に上がると喘息がひどくなり、よく学校を休んだ。夏休みになるとほぼ毎年のように国立の大きな小児病院に入院していた。そのせいで夏休みの宿題が全部できなくても怒られなかったというメリットもあったのだが、喘息の発作はほんとうに苦しいし、発作が出てなくても、運動をしただけで気管が収縮し、呼吸が苦しくなった。勉強の方は何故か無難にこなせて、進級できないということはなかった。学校に行ってないのに、クラスの委員長にさせられたこともあった。いじめも少なからずあった。そいつからは中学に上がってもいじめられ、今でも恨んでいる。そいつのせいでメンヘラ度が上がったからだ。

 

 小学校のころから、あまり友達はできなかった。コミュニケーションに不安を感じていた。でもまだ小学生の頃はよかった。中学の頃もいじめられてはいたが、友達はいたし、本格的にメンヘラっぽくなってきたのは高校のころからだ。まずクラスメイトに話しかけるのが不安だった。自分から話しかけることはあまりなかった。休み時間が苦痛だったし、昼休みは針のむしろだった。学校に行きたくない日も増えた。しかし小学生の頃のようには、喘息の発作も出なくなっていたので、休む理由がなかった。時折、学校を休むというのは、メンタルにはいいのかもしれないと思う。

 

 そして大学時代。高校のころから勉強は芳しくなく、第一志望には落ちたが、なんとか大学には行けた。しかし高校と違い周りはほとんど知らない土地から来ている人たちばかり。ここで思いっきりコミュ障を発揮した。しらない方言でしゃべってる人はまるで外国人のように思え、まったく話しかけられなかった。クラスにいた2人の同じ高校の人とばかり話すようになった僕は、当然のようにクラスに馴染むことができず、周りからも話しかけらることもなく、孤立していった。安アパートに帰っても一人で、七人家族だった実家では感じなかった絶望的な孤独感でいっぱいになった。

 

 学校の授業も高校の頃とは違い、90分もあったので、元々集中力が長続きしない僕は授業の途中で退席することが多くなっていった。大学の授業に身が入らなくなり次第に学校行かなくなり、パチンコに通ったりもしたが、当時は何が面白いのかわからなかった。しかし稼げるので時折行っては、小遣いを手にしていた。アパートに帰れば、PCも持っていなかったので、レンタルビデオ屋で借りてきたVHSのビデオを見たり、古本屋で買ってきた文庫本を読んだりしていた。この頃から本格的にメンタルがおかしくなっていった。酒をを飲んでも気持ちよくならない体質らしく、タバコを吸っても何がいいのか全くわからなかった。当時、スピードというドラッグが流行ってるらしいという本を読んでは、多少の憧れを持ったり、完全自殺マニュアルという本が売れていた時代だった。どんどん孤独にはなっていっていたが、死への願望というものはなかった。というより、死への恐怖に満たされていた。

 

 そしてある日、パチンコ屋で時間を潰していたとき、激しい頭痛に襲われ、すぐに外に出たのだが、頭痛が治まらず、明らかにおかしいので、病院に向かった。すると血圧が180くらいまで上がっており、しかしその時は降圧剤を処方されることもなく家に帰され、一人で死への恐怖を増幅させていた。そして頻繁に病院に通うようになると、医者がある薬を出した。飲んでみると気持ちがすっとして気分が和らいだ。ドグマチールという薬で、何の薬か本屋に行って薬の事典で調べてみると、適応に「精神分裂病」と書いてあった。さすがにこれは飲んだらまずい薬ではないかと思った僕は、飲むのを止め、病院には行かないことにした。しかしドグマチールを止めると、今度は体が動かなくなり、世界が赤く染まっているような変な夢を見たり、どんどんおかしくなっていった。遂に、その生活に耐えられなくなった僕は、実家に電話をかけ、母にアパートまで来てもらった。本当におかしくなってしまっていたからだ。そして母と二人で病院に行ったところ、精神科の受診を勧められたのである。それが大学4年の春のことである。

 

はてなブログはじめてみました

ブログというものをいくつかやってきましたが、また始めてしまいました。あれですね、やる気があるときは、何かやったほうがいいんでしょうね。でもやる気があるときなんてあんまりないですから、エネルギーは常に漏電してるんでしょうね。ぼくは電気仕掛けじゃありませんが、電気代は常に気にしてます。意識高い系かもしれません。いっときますが僕はメンヘラ、それもガチメンヘラのハゲのおっさんなので、書かなくなったら長いと思います。人生の空白期間も長いです。というかほぼ何もしてきませんでした。読んでもらえたらうれしいですが、読んでもらえなくてもしつこく書いていけたら、自分をほめてあげたいです。では。